「おもてなし」の嘘

yufuin

いつのころからか知らないけれども、新聞やテレビで「おもてなし」という言葉を目にすることが多くなった。もちろん、「もてなす」という動詞は、昔から使われていたし、「もてなし」という名詞もまた、決して珍しいものではない。ただ、「おもてなし」が氾濫するまで、これらはいずれも、どちらかと言うと堅苦しい文章語として受け止められていたはずである。

たしかに、この何年かのあいだに流通し始めた「おもてなし」は、昔から使われてきた「もてなす」「もてなし」などの末裔であるかのような外観を具えている。しかし、「おもてなし」の実質は、これらの言葉とは無関係であり、「おもてなし」が実際に指し示しているものは、近代以前から使われていた「もてなす」や「もてなし」から区別されねばならない。

そもそも、「もてなし」という言葉によって指し示されてきた事柄の本質は、(普通の意味における)「歓待」にある。日本人なら誰でも、鎌倉時代に由来すると推定される佐野源左衛門の「鉢の木」の逸話を知っているであろう。また、あの逸話が歓待としての「もてなし」の典型であると言われて、違和感を覚える者はいないはずである。日本人が自然な形で理解する「もてなし」の本質は、「鉢の木」の逸話において表現されていると言うことができる。

そして、「おもてなし」から区別された「もてなし」の本来の意味を具体的な例を手がかりに考えるとき、「もてなし」の本質は、(普通の意味における)歓待として姿を現す。それは、見知らぬ者を歓迎することであり、「無償の行為」であり、何の対価も期待することのない自発的なものである。この点は、「もてなし」が「もてなし」となるための最低限の条件である。したがって、「もてなす」者がみずからの行為を「もてなし」と認識した瞬間に、「もてなし」は「もてなし」ではなく、サービスの提供へと堕落してしまう。「もてなし」というのは、どこでも見出すことのできるものではなく、むしろ、稀にしか成立しえぬものなのである。

サービスと対価の交換は、単なる商売であり、もはや「もてなし」ではない。この意味において、「もてなし」という名を与えられるべきふるまいは、経済的、市場的な思考と鋭く対立することになるはずである。

しかし、「もてなし」に関しさらに重要なのは、次の点である。すなわち、あるふるまいが「もてなし」であるかどうかを決めるのは、「もてなし」を与える者ではなく、これを受け取る者なのである。これは、「鉢の木」を想起すれば、ただちに明らかになるであろう。Bという人間に対するAのふるまいが「もてなし」の名にふさわしいものであるかどうかを決めることができるのは、Bである。Aは、この点に関し、何の権利も持ってはいない。したがって、Aが自分のふるまいを表現するのに「もてなす」という言葉を使うことは、原則として許されないことになる。「もてなし」とは、本質的にコミュニケーションだからであり、すべてのコミュニケーションがメッセージの受け取り手の態度に依存するのと同じように、「もてなし」もまた、これを受ける者の評価を俟って初めて成立するものなのである。

このような観点から「おもてなし」という言葉によって表現された事態を眺めるなら、これがいかなる意味においても「もてなし」ではなく、歓待ではないこと、場合によっては、コミュニケーションですらなく、モジュール化され、対価との交換で提供されるサービスにすぎないことがわかる。そもそも、「おもてなし」という事柄について「与える者」と「受け取る者」を区別するなら、「おもてなし」という表現を使うことができるのは、与える者の方だけである。「お」という一文字が付されているという事実は、それ自体としてすでに、何かを受け取る側に身を置く者にはこの言葉を使うことができないことを形式的に示している。

「受け取る者」には、「おもてなしいただく」と言うことが可能であるけれども、これは、みずからが受けるもてなしが無償であり自発的なものであるという了解を前提としている。この意味において、「おもてなしいただく」という文字列に含まれる「おもてなし」は、いわゆる「おもてなし」とは何の関係もないと考えるべきである。

何かを与える者の立場に立つと信じる者にしか「おもてなし」という言葉を使うことができないなら、これはもはや、いかなる意味における「もてなし」でもない。「おもてなし」の意味するところは、自分の価値評価の一方的なパターナリスティックな押しつけ、しかも、始末の悪いことに、この一方的なパターナリスティックな押しつけによる対価の要求に他ならないのであり、対価にふさわしいサービスしか提供しないという宣言ですらある。この押しつけと対価の要求がいかにソフトな仕方で遂行されるとしても、これは、当事者のあいだのコミュニケーションを賦活するものとはならないであろう。

しかし、私の乏しい経験を振り返るかぎりでは、現実には、わが国の観光地において「おもてなし」の名のもとで行われてきたこと、そして、今後、「おもてなし」の名のもとで行われるはずのことの多くは、サービスの押しつけと対価の要求にすぎぬものであるような気がしてならない。

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“「おもてなし」の嘘” への1件の返信

  1. 「もてなしとふるまい」の史実として、天皇行幸とそれを迎える室町将軍家の例(永享九年後花園天皇を迎えた足利義教)また天生十六年後陽成天皇の聚楽第行幸を迎えた豊臣秀吉などの史実があります。「もてなし」の本質をつきとめるにはこうした実例に学ぶがよろしかろうお勧めします。

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